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誠実であるということ
Sun.04.12.2011 Posted in etc


自分の内なる声に忠実であろうとして生まれる苦しい試練は、辛い試練のリストのなかでも上位に置くべきものだ。それは手を伸ばしても届かず、知ることも動かすこともできない、何者かの力にとらえられているような感じで、けっして手放してくれないのだ。自分自身を受容せよと迫り、しかも、どんな人間かまで知っているかのようだ。自分自身であらねばならないというのは、たいへんなこと。人生、この段階に到達すれば、もうある程度同輩たちから自由になったといえる。しかし、その辛苦。等身大の評価を超えて立派と思われ、その行く末は恐れられ、遠ざけられる。衆愚からの悪影響に対してわずかに免疫をつくる、すこしばかりの独自性を見せて耐えなければならない人たちもたくさんいるが、ふつうの人たちはそれを避ける。彼らは「異をとなえないで、イエスと言おう、それが安心」という本能の警告に従って楽をする。自分自身でいることはどんな困難にも値すると確信するのは、容易ではない。が、われわれはそれが聖なる義務であることを知っている。

(フロリダ・スコット=マクスウェル「わが日々のものさし」)







わたしに多大な影響をあたえ、いろんな意味ですぐれた人物を思い起こすと-リュネ・ポー、イーディス・ケネディ、ジャン・ドミニク、コテリアンスキー、ヴァージニア・ウルフ、エリザベス・ボウエン、ジュリエット・ハクスレー、身近ではミルドレッド・クイグリー、パーリーコールなどーみな限りない威厳と勇気を保ちつつも、遠慮のないもの言いをし、他人の感情をおそれず、またみずからの感情を表現することをおそれない人たちだった。(中略)
わたしは死ぬとき、毎年春になれば種を散らし、それを損失とは数えない木々のように、自分をさらけ出してきたのだと信じたい、それは損失ではなく、未来のいのちに加えられることだから。それが木々の生きる道だ。力強く根を張り、その宝を風に散らしながら。

(メイ・サートン「回復より」)







ものを創るということはみずからを差し出すということなので、たまに、どうしようもなく疲弊してしまうことがある。

それは多分、わたし自身の中に十分な蓄積がないまま、またそのことに自覚がないままに自分を出し切ってしまうからで、その結果、与えすぎてしまうからなんだろうと思う。
つまりはバランスの問題なんだろうけど、バランスなんて考えていたら創れない、というのも、わたしの場合は一方でまた真実なのだ。気づいたら出し切ってしまっている、ということが殆どだから。

それでも、出し切れたときは幸せなのだ。
問題は、出し切れなかったときの方。




ひとりになること。

動物や植物の世話をすること。
たくさんの絵画を見る、映画を見る、舞台を観る、音楽を聴く、写真展を見る、美術館に行く、植物園に行く、樹の下を歩く、愛する人に手紙を書く、大切な友人と話す、旅をする、本を読む。


優れた先人の言葉を辿り、考える。




これらすべてのことが、与えすぎて空っぽになってしまった内部を、再び充填させる役に立つ。





わたしの場合は。









つまりは、循環させることが肝心なんだろう。


出したら入れる。
シンプルなことだ。





自分を出せる術を与えられた幸運を、そして、わたしが独りでないことを、万物に感謝しつつ。




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