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■MOVIE■『DOUBT』 ★★★★★
Sat.07.03.2009 Posted in Movie

doubt.jpg

1964年、ニューヨーク。

ブロンクスのカトリック学校、セント・ニコラス・スクールでは、校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)が厳格な指導を信条に、日々職務を果たしていた。

その一方で、生徒の人気を集めるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、ストイックな因習を排し、進歩的で開かれた教会を目指していた。

ある日、シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)が、あることを目撃してしまったことから、シスター・アロイシスによるフリン神父への執拗な追及が始まるのだった…。


2005年トニー賞の最優秀作品賞・主演女優賞、ピューリッツァー賞を受賞した舞台劇の映画化。

原作・脚本・監督は、舞台同様、ジョン・パトリック・シャンリィ。




映画製作が発表になった時点から公開まで、非常に楽しみにしていた作品の一つ。


実は、この芝居がBroadwayで大評判をとっていた時期、わたくし。
何度も観る機会があったにも関わらず、見送っておりましてね。

芝居の内容そのものには、とても興味があって。
特に、当時、舞台版で主演を張っていたチェリー・ジョーンズは、やはりB'wayで観たプレイ『Faith Healer』で、その演技派ぶりに恐れ入っていたこともあり。

観たいと思っていたのです。

思っていたんですが、なにせ宗教絡みの話だって言うのでね。

何によらず、とりあえず、宗教の匂いがすると腰が引けるっていう。
個人的な体質により、なんとなくグズグズしている間に終わってしまいましたんですよ。


悔しいので、映画の方は、初日に駆けつけてみました。


で。


まず、メリル・ストリープがすんごかったです。

フィリップ・シーモア・ホフマンも、いつもの通り良いんです。
何せ彼は、そこに立って、ただ微笑んでいるだけで変態に見える、という。

ハリウッドでも稀少な俳優。

この、両義的な演技を要求される役には、実にぴったりの役者。
はまり役です。


ですが、今回はね。

メリルのド迫力に完敗。


映画化に際してキャスティングが発表されたとき、すわ、これは。


とうの立った姫川亜弓と北島マヤの演技合戦か?

あるいは、

蝦蟇と蛇の睨みあい?


などとね。

濃ゆくもエグイ図を想像して、密かにワクワクしていたりもしたものですが。


蓋を開けて見れば。
ホフマン蛙はメリル蛇に、あっさり丸呑みにされていました。


メリル強し。
メリル無敵。

メリル怖い!
(いやほんとよ)



観る前は、メリル・ストリープが巧いっていうのは最早わかりきっているんで、別にね。
そうそう驚くことはないだろうと思っていたのですよ。

それがねぇ・・・。


このシスター・アロイシスっていうのは、ただの、乾いた砂漠の如きバッサバサのオールド・ミスってわけじゃないんですよね。

確かに厳格かつストイックで、その頑迷さ、その独善っぷりには辟易させられます。
不寛容と言えば不寛容、狂信的といえば狂信的。

受容性というものが、一切何もないように見える。
一見ね。


でもその一方で、彼女は生徒に対して、決して分け隔てをしないし。
同僚の年老いた修道女を、施設送りにしないように、実はひそかに庇っていたりもする。

見ているうちに、彼女には彼女なりの、確固たる信念と教育観があること。
長年の経験に基づいた職業的な「勘」のようなものがあること。

だから彼女の抱いた「疑い」が、決して根拠のないものではない、「かもしれない」こと。

メリルは、それらを観客に「納得」させないといけないんです。


同時に、フリン神父に対する、彼女の本能的な嫌悪感の在り処も、観客に提示しないといけない。
そうでないと、わたしたちは物語が始まって早い時期にね。

「断罪」してしまうでしょ?

フリン神父か、シスター・アロイシスか。
白か黒か?

嘘をついているのはどっちだ?
正しいのは誰だ?って。

シスター・ジェイムズの存在によって象徴的に表現されるように、大方の市井の人間にとっては。
「疑念」ってのは、そりゃあキツイものなんですよ。

疑い続けて眠れなくなるくらいなら、多少強引でも、早晩断罪して。
もしくは幕を引いて、とっととカタをつけたいと思うもの。


でも、それじゃサスペンスにならないし。
何より、「Doubt」にならないわけですよ。


つまり、観客をこの芝居に感情的に巻き込めるか否かっていうのは、ひたすらシスター・アロイシス役の女優の演技にかかっているの。

これ、非常に難役だと思います。


エイミー・アダムスも良かったです。
彼女の「鳩のごとき純真さ」は、この物語における一服の清涼剤。

同時に、自分で何も考えないってのは罪だよな、とも思わせます。
初心であることと「愚」であることは、紙一重。


この芝居のクライマックスはいくつかあって。

校長室で、シスター・アロイシスとシスター・ジェイムズが、フリン神父を問い詰める場面がその一つ。
そして無論、シスター・アロイシスとフリン神父が、ガチでタイマンを張るシーン。

さらにもう一つの見せ場が、黒人の男の子の母親とシスター・アロイシスが、道すがら「疑惑」について話すシーンだと思うんですけどもね。

この母親役を演じたヴィオラ・デイヴィスが素晴らしかったです。

彼女は、シスター・アロイシスによって知りたくないことを知らされて。
その上で、息子の「事情」を告白するよう強要されます。

彼女は、シスターに対して、決して抵抗しないんです。
辛いだろうにね。

答える義務なんてないのにね。
こんな、ド厚かましい詰問になんかさ。


息子の「性癖」を知っていて、もしかしたら神父が息子に対してしたかもしれないことも受け止めて、なおかつそれでもそれがあの子の生きていく術ならば、わたしは容認する。
目を瞑ろう。

わたしは息子の将来のためなら、腹を括る。

てか、とっくに括ってるし、みたいな。

マイノリティとして生きる、日々の生活に疲れたお母ちゃんの。
濃い隈の浮き出た涙顔には、シスター・アロイシスならずとも動揺。

胸をうたれました。

と同時に、ああ、寛容っていうのは、こういうことでもあるのだな、と。

諦めっていうか、達観っていうか。
諦念というのかな。

なんてんですかね?

そこにあるものを、あるがままに受け止める、というかね。


でも、わたしが思うに。

結局のところ、疑惑や妄信や妄執をそらすのって、これなんじゃないかな。
違うものは違うものとして認める。

無理して理解しようとせず。

諦めを持って受け止める。
それをそれとして、ただ、受け容れる。


実際にはこれ、なかなか難しいことですし。

この母ちゃんのように、DVや貧困に耐え、目の下に隈を作った挙句に「寛容」を獲得して、果たしてそれが幸せか?って言ったら、それはどうかわかりませんけども。


でも、同じ土俵に乗らないっていうのは、存外ね。
大事なことかもしれません。


何故って?

同じ本を読んでいても、違うページを読み進んでいれば。
同じ結論には、決して辿りつかないものだから。



物語の中では、結局最後まで、フリン神父が白か黒かってことはわからないままです。


彼はペドフィリアか?わからない。
ホモセクシュアルか?そうかもしれない。


そこはあえて、匂わせるにとどめてあります。

具体的な説明も描写も、最後まで何もない。


彼はただ去って、神学校の冬枯れの庭に、シスター・アロイシスが一人座っている。

そして、彼女が最後に、目を宙に泳がせて。
半ば叫ぶように吐き出す台詞がこれです。


「I have doubts! I have such doubts!」


わたしは、ここのメリルに演技に、鳥肌が立ちました。


確信ゆえに、失われてしまう何かがある。
それは何か?

愛とは何か?
寛容とは何か?

信念とは何か?


タブーとは何か?




シスター・アロイシスには疑惑だけが残った。


これはそういうお話です。

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