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■MOVIE■『チェンジリング』 ★★★★★
Sun.01.03.2009 Posted in Movie

Changeling_poster.jpg

1928年。

ロサンゼルスの郊外で、9歳の息子・ウォルター(ガトリン・グリフィス)と暮らすクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)。
彼女は電話交換手の主任を務めながら、シングルマザーとして息子を育てていた。

1928年3月10日。
仕事から帰宅するとウォルターの姿はなく、警察に通報しても捜査は進展しない。

誘拐か家出か分からないまま、行方不明の状態が続き、クリスティンは半狂乱になって息子を捜すが見つからない。


そして5ヶ月後、LAPDにより息子が発見され、クリスティンは念願の再会を果たす。

だが、彼女の前に現れたのは、最愛のウォルターではなく、彼によく似た見知らぬ少年だった・・・。



監督・製作・音楽はクリント・イーストウッド

出演は、ガトリン・グリフィス、ジョン・マルコビッチ、コルム・フィオール、デボン・コンティ、ジェフリー・ドノバン、マイケル・ケリー、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、ジェフリー・ピアソン、エディ・オルダーソンら。




クリント・イーストウッドは多分。
クリスティンの最後の台詞のために、この映画を撮ったんじゃないか。

観終わった後、そんなことを思いました。


「Hope」ね。

にっこり笑った彼女が、この台詞を最後に。
警察署の前の階段を降りて、ロスの雑踏の中に紛れていって。

やがて、フィルムがモノクロにターン・アウトしていくラストは、非常に美しく、また。
大変潔いです。

クリスティンは、その生き様が、最後まで全くブレないんです。


その「希望」がどんなに苦いものであろうとも。



"A true story"だそうです。
映画の冒頭で、そのようにクレジットが出ます。

でも多分。
おそらくはこれ、ダブル・ミーニングなんじゃないでしょうか。

ひとつには、無論。
本当に起こった事件ですよ、って意味と。

そして、もう一方で、これは"真実"について描いた映画なんですよ、と。


そういう意味では、クリント・イーストウッドの作品の例に漏れず、非常に直球。
かつ剛速球。

視点に迷いがなく、ストーリーにも登場人物にも、一切の無駄というものがありません。
古典のような風格を持った映画でした。

そしてまた。
イーストウッドの作品の例に漏れず、一人として悪人は出てきません。

根っからの悪い人間なんてどこにもいない。


いるのはただ、弱い人間と強い人間だけだ、という。


それも、決して二元的な意味ではなくて。

弱い人間が一皮捲ればとんでもなく強かったり、一見強そうに見える人間が、実はどうしようもなく脆かったりね。

一人の人間のなかに、強さと弱さはミルフィーユのように幾重にも重なっているんだ。
両局面がすべての人間に重層的にあるんだ、と。

人間だから、弱かったり強かったり、時には権力やら甘い誘惑やらに屈しそうになるかもしれないけど。
すべての人間に両面があるなら、強さが弱さを凌駕することは必ずできるはずだ、と。

我々の内にある自浄作用を信じろ、と。

イーストウッドは、いつもそう言っているような気がする。

自分にも、周囲の人にも。
自国アメリカに、そして世界に向けて。


だからこそ、彼女の最後の台詞は「Hope」なんじゃないかな。



キャストでは、腐敗したLAPDの警部補を演じたジェフリー・ドノヴァンが素晴らしい。
権力の犬で横暴で傲慢で恥知らず、という嫌な役なんですが、巧かったです。

先に書きましたが「強さと弱さの相克」ってのが、この映画の重要なテーマだとわたしは思いますが。
このキャラクターは、それを象徴する大事な役どころです。

服装とか髪型とか容姿、そのエリートっぷりがね。
ちょっと『LAコンフィデンシャル』のガイ・ピアースみたいです。
キャラは、実は全然違うんですけどね。

実際、パロディを意識しているのか?ってなシーンがちょこちょこあって笑いました。

『LAコンフィデンシャル』といえば、LAPDの腐敗描写もあのまんまでした。
ジェイムズ・エルロイの世界ね。

強さと弱さを併せ持つっていう点では、変態殺人鬼役のジェイソン・バトラー・ハーナーもよかったです。

殺人の動機や、彼が「そうなった」経緯は一切描かれませんが、何かがあってこうなったんだろうな、と。
過去の傷をかすかに匂わせる微妙な演技が、実にブリリアント。


そのほか、子どもから大人まで。
すべての役者が良かったです。

イーストウッドは、どうしてここまで立体的に役者の個性と役柄を見せることができるんだろう?っていうくらい。




・・・ああ面白いな、と思ったのはね。

この話に出てくる男と女の行動の動機の、明らかな差異ですね。

男はね。

腐敗警察の警部補や警部から、マルコヴィッチ扮する長老派教会の牧師やクリスティンを支える弁護士や、精神病院の医師(デニス・オヘア、好演!)にいたるまで、皆。

何らかの「理由」が行動の動機になっているんですよ。

それは、サイコパス(なんだろう、多分)のゴードンでさえもそうなの。

信念とか義務とか、正義感とか任務とかさ。
まぁなんでもいいんですが。

要するに、理屈がいるのね、男には。
弱虫だから。


対して、女は、クリスティンを始め、理屈じゃありませんよ。

劇中で、警部補がクリスティンを指していう「She is a woman」って印象的な台詞があるんですが、まさにそう。

彼女たちは、女なの。
女は、感情と本能で動くの。
でもって、全然ブレないんですね。

クリスティンと、精神病院に収監された売春婦キャロル(エイミー・ライアン)の友情の交歓はとても美しかったです。

娼婦というのがどんな商売であれ、"どう生きるか"は彼女自身が決めることであって。
自分の体を売って生きるという自由を、この地球上の誰も侵害できない。

そのことが、キャロルという女性の存在によって、静かに。
しかし力強く語られます。


理屈じゃない。
だけど、言うべき時に、わたしたちは言うべき台詞は言うのよ。

これを受けての、その直後の、クリスティンの啖呵は、ですからね。
ものごっつい格好良いんです。

医者に向かって、「Fuck you!」ってさ。

自分の頭で一切何も考えていない、そのくせ人の"生き様"を平気で侵害する彼に対してね。


このシーン、アンジェリーナは全編を通して一番。
生き生きとしていたように思います。


ここと対をなすのが、死刑執行前の殺人鬼に独房で対面したときに、「Go to hell!」と罵倒するところ。

彼女は、別にね。
彼が子どもを殺した行為に対して、「地獄へ堕ちやがれ!」って言っているわけではないんですよね。

彼を許しているわけではないですよ。
憎んでいますよ。
罪を憎んで人を憎まずってところまでは、全然行っていないですよ。

彼女は、ただただ、息子を取り戻したいと思っている。

でも、彼女は息子がいなくなった責任は、結局のところは自分にあると自覚しているから。
彼女は、自分の責任をきっちりわかっていて、そこから決して逃げないんです。

なのに、彼が、「懺悔を済ませたから、自分はもう地獄へ堕ちる事はない」と。
ヘタレたことを口にしたから、罵ったんですよ。

筋を通せ、と。
神に委ねるな、と。

オマエを裁くのは神ではない、と。


自分のケツは自分で拭け、という。
そういう怒りなの、彼女の罵倒は。


ここでね。

「責任」という言葉が、映画冒頭の、出奔した夫のエピソードに再度シンクロするわけです。


上記2シーン以外では、彼女は基本的に、誰も責めないの。
帽子の縁ごしにひたすら冷静に、冷徹に、見つめている。

自分を、周囲を。
自分のresponsibilityを。



女が、この社会で。

自分を殺さずに、信念を持って生きていくのは大変なことです。
自分を曲げないで生きるってのは、結構キツイことだからさ。

だから、病院の看護婦や婦長は、皆、「感じる」ことも「考える」こともやめてね。
ひたすら能面のような無表情になっているの。

まるで男みたいにね。

でもそれって、本末転倒だ。
女には、女の戦いっぷりってものがあるんだよな。


働いてりゃ、感情を殺さなきゃならない場面だって、そりゃありますよ。
個人の感情よりも理性や理屈を優先することなんて、日常茶飯事ですよ。

そこはバランスの問題。

大勢に組した方がラクはラクでしょうよ。
でも、それはつまりね。

退廃の始まりだもの。


イーストウッドの映画には、デカダンスなんてありゃしません。
彼は退廃なんて、決して赦さない。


でも、だから。
クリスティンは、一生、「希望」を捨てなかったからね。

牧師や弁護士でさえ諦めた後でも、彼女は決して退かなかった。

牧師は、息子の死を受け入れて、自分の人生を生きるようにとクリスティンに諭します。
でもね。

「どう生きるか」は、クリスティン自身が決めることなんです。


そして、彼女は筋を曲げず、彼女の生き方を全うしました。
彼女個人の責任において。


どんなときでも希望を持ち続けること。
個人の責任というものから、決して逃げないこと。

人のせいにするな。

社会のせいにするな。
組織のせいにするな。

それこそが、本当の強さというものだろう、と。
弱さをカバーするのって、結局のところはそこだけだろう。

それこそが人間というものだろう。
それが人間の美しさだろう、と。

それが人間の「真実」だろう。


わたしなんかは、そう思うわけです。


多分、イーストウッドもそう思っているんでしょう。



ラスト、彼女は彼女の「希望」を選択します。

もしかしたらあったかもしれない、というか。
あったであろうという仄めかしがきっちり描かれているところがまた、容赦ないわけですが。

新しい別の人生を辿ることはなく。
彼女は、彼女の責任において、信じ続けることを選択するんです。

その「希望」が、どんなに苦くても。
傍からみて、どんなにか残酷なことであっても。

彼女の生き方を、誰も侵害することはできない。


この作品は、「真実」と「希望」の物語です。

取り替え子を探す一人の女の母性を描いているわけでは、決してありません。



骨太で硬派で正攻法。
素晴らしい作品だと思います。


一食抜いても、是非。

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comments

今日見てきました

本日観るまで、MARIさんの記事を読まないでガマンしてました。
お言葉どおり、一食抜いても観る価値がありますね!!

とはいえ映画館を後にしたとき、私はどうしてこの映画が気に入ったのかよく説明出来なかったんです。
主人公の意思の強さとか、漠然とした理由でしか思いつかなくて。

「ブレない。」
そうです。そのことを私も感じていたのです。
ただ感動を言語化することが出来なくて。

RENTのときもそうでしたが、MARIさんの切り込みの深さ、視野の広さの恩恵を受けさせていただいてます。

かなかなさん

お褒めいただきまして恐縮です~(テレテレ・・・)

映画や舞台やアートは何でもそうですけども、多分ね、観る人間の経験の範囲内のことしか見えないんじゃないかと思うんですよ。鏡みたいなもので。
だから、感想なんて千差万別で良いんです。わたしはそう思うの。

でも、同じ映画や舞台を観て、同じことを感じるっていうのは嬉しいことだし、そういう響き合いは楽しくまた心温まります。

かなかなさんと同じ感想を持てて、わたしはとても嬉しいです。

始めまして。リバタリアンを描いた映画だと思いました。リバタリアンをコアに脚本を練っていろんな人物を登場させて、リバタリアンの生き様からhopeを匂わせる、実効性を匂わせるという映画でした(そのように感じました)。イーストウッドらしいかな。
もういちど観に行こうと思っています。

ほぼ同じような感想をいだいていたので、こちらの御意見には共感するところは非常に多いです。ただ、観賞してから数週間たった今では私はクリスティンにもイーストウッドにもある程度以上の共感をしません。
リバタリアンの限界は、新自由主義が吹き荒れているアメリカと今の日本に現れているからです。
その姿勢は「個人対社会」としては、おそらく必須のものであって(私も支持します)も、社会全体としてみると格差も区別も生み出してしまう「自分勝手さ」が欠点として露見するように思えます。
難しいですねえ・・・

guさん

はじめまして!コメントありがとうございます。

リバタリアンを描いた映画、その通りだと思います。
イーストウッドは本当に頑固一徹ですよね。あの筋の通し方、わたしはとても好きです。

わたしがこの映画を通して一番強く感じたのは、個人レベルにおける責任と、「始末」のつけ方でした。
自由だからといって何をしても良いわけではない、でも人にはそれぞれの事情があって、いかに自分勝手であっても、社会的同義的に許されないことも時にはしてしまうのが人間だと思うんです。
そこを責めても仕方がない。やってしまったことは元に戻せないし、また、やらかすんですよ、必ずいつか、誰かが。

やらかしてしまったことにどう落とし前をつけるかってのが重要で、そこには自ずから、その人の美学が表れると思っています。

リバタリアンの限界、仰る通りだと思います。
その限界を超えるものがあるとしたら、それは他者に対する思いやりというか想像力というか、要するに広い意味での愛じゃないか?とわたしは思っています。
見返りを期待しない、個人レベルの愛かな、と。
格差も区別もなくすことはできないけれど、格差や区別を超えて人が人を思いやることは可能です。

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